<杉樽の役割。――流通という面から見ると>
桶・樽は11世紀頃に中国(宋)との貿易によって日本に伝えられたそうだが、交易の舞台だった北部九州の一部のみで使われた時期がずいぶんと長く、全国に普及するまで、実に400~500年もかかっている。
日常生活で水気のあるものを入れる木製容器といえば、それまでは曲げモノの器だったわけだが、スギダラ秋田ツアーでも見学したように、曲げわっぱは柾目の薄い板を先につくり、それを丸めてつくるものだから、木の幹の太さが器の最大限の深さにしかならない。そのうえ、そんなに頑丈とはいえない。それに対して、板材を縦方向に並べて周囲を竹のタガで締め、底(あるいは蓋)をはめこむ桶・樽なら、10石(3600リットル)以上入る大型の容器もつくれる(記録を見ると100石桶というのもある! 巨大な桶に落ちて亡くなる人もいたらしい)。
では、なぜ便利な桶・樽の普及が遅れたのか。そこが面白いところだ。
第一の理由は、まだ大容量の桶・樽を必要とするほど生産活動が盛んではなかった、ということ。戦が続いて世の中が安定していなかったし、米の収穫も乏しかった。人々がギリギリの状態で暮らしていればモノのやりとりも少量で、地域の中だけで事足りてしまう。
17世紀以降、爆発的に桶・樽が広まっていったのは、幕藩体制が確立して、民衆の生活力もアップし、地方の勢いも増してきた頃とぴったり一致する。それは町づくりが盛んになってきた時期、つまり、建材としての杉が大量に出回った時期でもある。杉は、何と言ってもスパッと割れて板材にしやすい。軽い、発育が早い。そんなわけで、建設が盛んになればなるほど需要が高まり、全国で杉の植林が進んだ。
ここで今回、私としてはもう一つ新しい発見があった。日本人は「節がない」「目が真っ直ぐに通っている」木を好むが、それは古代からずっと「割る」加工方法がメインだったからこそ刷り込まれた感覚なのではないか、ということ。割れやすい(加工が楽な)木がふんだんにあったからでもあると思うが、日本で縦挽きのノコギリの導入されるのは遅く、17世紀に入ってからなのである。
前述の本『杉のきた道』の中で天竜の杉コケラ職人が、こんなことを言っている。
「ヒノキは割りにくいから使わないのであって、高価なためではない」
おー、そうか! これは、2005年のスギダラ秋田ツアーと翌年の群馬ツアーの両方に参加した人ならわかるだろう。秋田で私たちが枝打ちをしたのは杉林だったが、群馬では枝打ちができる適当な杉林がなくてヒノキ林に入った(気づかなかった人もいたでしょ?)。斜面が急で足場が悪かったこともあるけれど、枝を一つ落とすにも力がいって、「去年の方がずっと楽だったなぁ」と思ったのは私だけではないと思う。それだけヒノキは杉よりも扱いにくい。
そんな風にいろんな背景が実にうまーく重なりあって、杉の桶・樽は庶民の生活に深く根ざしていくようになるのだ。 |