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「まちぼうけ、まちぼうけ〜ある日せっせと野良稼ぎ〜そこへ兎がやってきて〜ころり転げた木の根っこ〜」どうもこの先が思い出せないというか、覚えた記憶がない。僕は、よくこの歌を天気のいい日は実家の窓によじ登り窓枠に腰掛け飽きもせず、ずっとこの歌を繰り返し歌っていた。歌いながら妄想にふけるのが楽しいのである。この歌を歌っていると次から、次から映像が浮かんでくるのである。思い起こせば、ずっとこの妄想癖が直らない。 僕の母親は町でパーマ屋を経営していた。そして父は町役場の役人だった。昼間はいつも一人で遊んでいた。何故か、同い年の世代と遊ぶのが苦手だった。それより近所の魚屋や、肉屋の店先でその仕事を眺めているのが好きだった。そしてよく手伝わせてくれたりおやつを貰ったりしていた。また一人遊びが好きだった。アリの行列を一日中眺めていたり。でんでん虫を大量に集めたり。工事のための砂山に道や町を作ったり、河原の石を集め河原に町を作ったり。とにかく頻繁にマイブームがやってくる。友達と遊んでいる暇はない。お陰で近所の同級生とは趣味があわなかった。実に暗い少年である。 小学校の低学年のある日、父が図鑑を買ってきてくれた。最初は世界の動物図鑑だった。もう興奮の嵐だった。見た事もない生き物が生き生きと描かれている(写真ではなかった)。その姿を見て勝手に妄想に耽った。一ページ一ページ大切に大切に、読み込んでいった。それから昆虫図鑑、爬虫類、魚類・・・と全部で11巻だったと思うが、父が毎月買ってくる図鑑にのめり込んでいった。僕は誰かにこの興奮を伝えたくて、ようやく友達と遊ぶようになった。そして友達を自宅に呼び、爬虫類の凄さ面白さを図鑑を見せながら語った。「この中でどの蛇が一番猛毒だと思う?」「それがたい、こんグリーンマンバちゅう、蛇たい。緑色で繊細で、そう思えんやろ〜、噛まれたら終わりバイ、すげーよな」そうやって一ページ一ページクイズ形式で友達に語っていた。 今思えば、友達は偉かった、そんなものを毎日聞かされる方は、たまったもんじゃない。その凄い友達の名は米丸くんだった。米丸くんとはその後中学を卒業するまでずっと、何時も一緒でほぼ毎日遊んでいた。彼は明るくて、物真似がうまく、歌もうまくクラスの人気者だった。人を笑わせる天才だった。僕もそうなりたいと本当に思った。僕は彼の家に、入り浸りになった。毎日大笑い。そして彼の数々の芸を僕は物まねした。先生の物真似から、田中角栄の物真似、人を笑わせる、楽しい空気にするのがとても新しくて、楽しかった。 僕たちは一緒に中学校随一の冴えない卓球部に入った。万年一次予選敗退チームでユニホームさえない、普通の体育着で大会に出る恥ずかしいチームだった。先輩はいたが、全く迫力のない先輩で、僕らの漫才にいつも大笑い、すっかり練習もせず、この卓球部は、お笑い部に変身してしまった。他の部活の連中から白い目で見られるくらい情けない漫才集団と化したが、僕らは毎日、毎日楽しくてしょうがなかった。そんなものだから、僕ら3年になるころには卓球部は全員で5名ぐらいの超弱小部になった。そして中学生最後の大会がやってくる事になった。僕は5人の部長だった。そして僕らの地区には県大会で活躍する最強チームがいて、必ずこのチームに負けるのである。ユニホームが黒でいかにも強そうなのである。おまけに監督も怖そうで掛け声も決まっている。こっちは、真っ白い普通の体育着で、背中と胸に、情けなく3年2組 若杉 と書いてある。登場するだけで笑えるチームだ。まるでプロとアマぐらいの見栄えの違いがあるのだ。そしてさらに、毎回完敗なのである。でも僕らはそんなことはチットも気にしていなかった。へたくそ振りを笑いのネタにしていたぐらいである。 そんなある日、僕と米丸くんで妄想をしてしまった。それは、一回でいいから勝ってしまおうという妄想であった。これじゃ本当に卓球部ではなくてお笑い部になってしまう。「一回で良いから、勝とう!!」「よ〜し勝つ!!」「勝つぞ〜!!」「カツ丼!!」全く迫力はないが、決めてしまった。 しかしそれからが、大変だ、その先は、考えていなかった。イメージがない。それより、また体操服で地区大会に出るのが怖かった、というか恥ずかしかった。 地区予選、僕らは一度も出た事もなければ、どんな相手がいるのかさえ知らない。イメージが全くつかめない、妄想も働かないのだ。大会に出てびっくりした。卓球台がこんなに並んだ体育館は見た事がない。おまけに体育館のセンターで卓球だけの大会であった。僕らはすっかりその空気に飲み込まれてしまった。初戦から最終戦まで完敗。今も何処と戦ったのかさえ思い出せない、というか現実だったか幻だったかさえわからない。ただ唯一僕らの手には憧れのユニホームだけが存在していた。「おれたち、やっぱり、やったばい!」「そう、ユニホームば残した。」「伝説になるばい、ユニホームば作ったチームちゅ」「なる、なる」そんな些細な盛り上がりを持って、中学校最後の部活は終了した。 その後、僕は熊本市内の高校に進学するため、勉強に没頭し、彼は地元の高校に進学した。最後に僕が英検で満点を取ったとき貰った意味不明な記念バッジを手渡したのを最後に、会っていない。最後まで意味不明な僕によくつきあってくれたもんだ。その後、彼は、お母さんが亡くなり、引っ越しをしてしまった。ボロボロになった彼の家は今も存在しているが、当時の面影はもう残っていない。 そして、それからも僕は相変わらず妄想に耽っている。次から、次から映像が浮かび上がってくる。そしてその映像が明らかになり、現実になる事を思い描きバカバカしい日々を送ってきた。そのお陰で随分失敗だらけだった。しかし妄想の果てが見えた事と、素直に自分に従ったことの開放感に満たされるのだった。南雲さんと出会い、僕は彼の妄想力にびっくりしたというか、妄想をまっすぐに現実にする力にびっくりした。「まさか、本気かよ〜」が「やっぱり、そうなるか」になってしまう。そしてそれは、とてつもない感動と喜びに変わる。 「一家に一杉。そして全国の杉デザインを集めて東京ドームで展覧会をやろう」その妄想からスギダラ倶楽部は始まった。それが今1000人の会員までになった。そして、その仲間は妄想を語り会い、霞んでいた映像を明かにしていく力を持っていたのだ。一つ一つの妄想が楽しくも美しい感動をもったイメージや映像になりそして、やがて現実となる。 |
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今回から、若杉さんの文章に、若杉チーム2年目の下妻くんがイラストを書くことになりました。これが第一回目の試み。下妻くんのイラストに「この文章から切り取る場面は、そこかっっ!」とチームみんなから突っ込みが入る。その切り取る選択のおもしろさとともにお楽しみください。 | ||||||||||||||||
●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー 株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない 活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長 |
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